パチスロと私

幼い頃からゲームが大好きだった私は、将来はゲームを作る仕事に就きたいという想いから、情報理工系の大学へ進学したのですが、大学1年生の夏頃に、私の人生を大きく変える「あるモノ」と出会うのです。

「あるモノ」との出会いのきっかけは、大学で出来た友人と麻雀で遊んでいた時、「何か儲け話ない?」「稼げるバイト紹介してよ!」といった何気ない会話が発端でした。友人の一人が、「それなら『パチスロ』はどうかな?知り合いが毎月20万円くらい勝ってて、バイトもしないで学費や生活費を稼いでるらしいよ。」との事でした。

高校時代のお小遣い5千円だった私にとって、また、学生にとっての20万円はかなりの大金でとても魅力的な話でした。若さと野心に満ち溢れていた当時の私は、そんな景気の良い話があるのか疑いもせずに、後日、「パチスロ」が置いてあるホールへ向かう事となるのです。

「あるモノ」すなわち「パチスロ」との出会いがここから始まったのです。

パチスロに関して何の知識も無い私だったので、同じ様に大学からパチスロを始めたという2つ年上の兄に、パチスロのイロハやオススメの機種を簡単に教えてもらい、いざホールへ出陣したのです。

小さい頃に父親がパチンコを遊技しにホールへ行く際、よく一緒に連れていってもらった記憶がありますが、その当時のまま、そこには活気と熱気で溢れており、まるでお祭り会場の様だったのを今でも覚えています。高ぶる感情の中、貯金の一部として引き出した1万5千円の大金を握りしめ、兄から教わったオススメ機種(私の初打ち機種「大花火」)へ向かいました。

恐る恐る千円をコインサンドの中に入れて、ジャラジャラと出てきた50枚の貸しメダルを慌てて取り出し、覚束ない手でメダルを投入し、1打1打を噛みしめる様に遊技していたと思います。そんな人生初打ちの結果ですが、良く聞くビギナーズラックといったものが・・・起こる事も無く、1万4千円の負けを喰らい(晩飯代として千円は残したのを覚えています)、パチスロは甘くないという事を教えられたのでした。

たいていの人なら、初打ちで負けを体験してしまうと、「パチスロ=怖い、危ない」などの印象を植え付けられ、ハマる事もないのでしょう。けれど、私の場合は、負けたままで終わるのは嫌だったので、ネットや攻略雑誌などを読みあさって研究をし、パチスロゲーム(アルゼ王国)で目押しの練習をしたりしてリベンジを誓ったのです。

市場には沢山の機種が存在し、様々なタイプ(技術介入機、AT機、ST機、ノーマル機など)の機種が存在していましたが、私に勝つきっかけを作ってくれた機種は、山佐の「ネオプラネット(ST機)」で、同時に、パチスロにどっぷりハマるきっかけとなった機種でもあります。

パチスロには勝てる(期待値がプラスになる)ゾーンやゲーム数が存在する事を知り、出玉率を調整する設定という概念があることを知り、また、目押しによる技術介入で獲得枚数を増やせる事も知り、パチスロを始めた最初の月こそは負けたものの、翌月からはほぼ勝ち越せるようになっていったのです。

この時から、私にとって、「パチスロ=勝てて楽しくて無くてはならないモノ」に変わっていったのでした。

パチスロと初めて出会ってから約20年の歳月が経とうとしています。大学卒業後は、パチンコホール関連の仕事に就き、ぱちんこ業界の育成専門学校に通い、下請けのパチスロ制作会社に第二新卒で働き、最終的には、目標となっていたパチスロメーカーに中途入社し、機種開発に携わりました。振り返ると、パチスロにどっぷり浸かった人生を過ごしてきました。

昨今のパチスロ業界は、厳しい規約の中、これまでにない氷河期を迎えていますが、私にとって、「パチスロ=人生の一部」であり、パチスロがこの世から無くならない限り、これからもずっと連れ添っていくモノなんだと言えるでしょう。

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